牧師の書斎 2019.5.19

 数年前、日本の教会で65歳以上の牧師が半数で、無牧の教会が3割もあると聞いた。KBIだけを見ると毎年多くの新入生を迎えているが、現実はどこの神学校でも入学する学生もかなり減っているそうである。


私がKBIの理事だった時、KBIに住まれスタッフとして働いておられたボルヨソン宣教師が、私の定年後、ボルヨソン師が責任をもっておられる福井県の勝山の教会の牧会のため招聘したいと言って下さっていた。その時私は、主のお許しがあって時期が来れば勝山へ行かせていただきますと答えた。


昨年、ボルヨソン師が日本での働きを終えられノルウェーに帰国された。今年の3月、KBIの卒業式には教え子に会うため再来日された。その時、先生にお会いし、私は先生と約束を心の中でずっと温めていたので、月に1週間位、勝山で奉仕させていただきますと申し出た。先生は大変喜んで下さり教会のメンバーと相談しますと言われた。


実はその時でも心の中では、八尾南での牧会も十分できていないことを感じていて兄姉のことを思うと少し迷いもあった。しかし、勝山行の事祈っていく中で主の導きであることを確信した。今、主から教えられていることは、勝山の教会のために、私が何かをするということよりも、「あなたがと私の互いの信仰によって,共に励まし合いを受けたいのです」(ローマ書1:12)と、兄弟姉妹との相互の交わり(コイノニア)の中に神の恵みが注がれ、ともに信仰が成長させられていく事だという示唆を下さった。韓国大邱の姉妹教会、山格教会に続いて主が開いて下さったコイノニアを通して教会に大きな祝福を注いで下さると信じている。続けて元気で奉仕が出来るように私や家内の健康を祈っていただきたい。

 

 

 

 

牧師の書斎 2019.5.12

歴代のアメリカの大統領の中でも内外から高支持率を維持し、また内助の功である夫人も夫を上回る高支持率を得たのはオバマ元大統領とミッシェル夫人であると言われている。米誌はその人気の秘訣を3つの「F」と分析した。


最初の「F」は「Family(家庭)」重視だそうだ。「毎朝おきて真っ先に気を配るのは、子供たちを時間通り登校させることね」ホワイトハウス・スタッフの子供たちにこう説明した。次はFood(食事)。子供の肥満防止を呼びかけるためホワイトハウスの敷地内で野菜や果物の有機栽培を始めた。ホームレスにスープを振舞った。そして次にFashion(ファッション)。大統領夫人としてはカジュアルなノースリーブを着用し女性のあこがれの的となった。


この記事を読んで、私たちにとっての豊かな人生の「3つのF」は… Family(家庭)、これは当然。
多くの家庭崩壊が増大しつつある昨今、大切なことは家庭の中心に主を迎えることである。健全な家庭を築く事を心がけよう。Food(食事)。バランスのとれた規則正しい食生活は健康管理の基本である。3つ目のFは、Faith(信仰)。み言葉に「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい」(詩篇127:1)とある。Faith〔信仰〕は神に対する基本的な姿勢である。「信仰がなくては、神に喜ばれることが出来ません」(ヘブル書11:6)。


私たちは、周囲の人々からどう見られているかではなく、神ご自身にどう見られているか、喜んでいただいているか、一番の関心事でありたいものだ。ちなみに、私の家内は?というと、大統領夫人には劣るけれど(笑)3Fをクリアしている私にとっては高支持率のベストパートナーである(母の日でちょっと甘いかな…)。

 

 

 

 

牧師の書斎 2019.5.5

令和の時代に入った。昭和の時代の戦後に生まれ、18歳の時に主に出会い救われ献身し、26歳の時に妻と結び合わされて八尾南福音教会の開拓を始めさせていただいた。平成の時代には出戸の開拓が始まり、そして「令和」の時代と、3時代に亘って父なる神に仕えることを赦され感謝している。また、年をとった、とも実感している。


振り返って、これまでの2つの時代に生かされて、神様が下さった恵みが計り知れないものであることを経験させられた事を思い主に感謝するとともに、この令和時代にも主がさらにどんな祝福を準備して下さっているかと楽しみにしている。


今、牧師の書斎を書きながら思うことは、パソコンや印刷機の普及によって週報を作ることがずいぶん楽になったことである。教会開拓時代は毎週、週報はガリ版刷りのものだった。原紙をやすりの上に置いて鉄筆で「ガリガリ」と書いたものを、ローラーでインクをつけ印刷をする。今でも開拓時代からの週報を時たま見ることがあるが、その時代の兄弟姉妹たちの顔や、一緒に礼拝し、伝道した時のことが思い浮かぶ。1977年2月に教会設立式の時、記念誌第1集をガリ版刷りのもので出した。5年ごとに手作りの証集「小羊の詩」を休日に集まってみんなで仕上げた良い思い出もある。教会設立20周年誌は全部印刷会社へ委託し、40周年記念誌は教会でデータ化したものを印刷会社に送り印刷製本された。初期の記念誌は今の時代と違って洗練されていない、泥臭い記念誌であったが私にとっても、家内にとっても思い入れのあるとても大切なものである。「バリアフリー」の教会として、年齢を超えて昭和、平成、そして令和時代生まれの3世代のクリスチャンが集められる教会を祈っている。


歴史の新しい節目に生かされている私たちを神が用いて下さるように祈っていこう。

 

 

 

 

牧師の書斎 2019.4.28

31年前、1989年1月、妻と私はアメリカのペンシルバニアにいる友人であるロッケルマン家に滞在していた。昭和天皇の崩御を聞き、すぐにテレビのニュースで昭和の時代が終わり、小渕官房長官が新しい元号が「平成」であると発表している映像を食い入るように見たのを覚えている。それから4年後、結婚されたジョン兄とカーメン姉を迎えて出戸バイブルチャーチの伝道が始まった。平成の時代に生まれた教会が早26年続けさせていただいたことは神の大きな恵みと感謝している。2016年㋆、今上天皇が生前退位を発表され、今年の4月30日に正式に退位されることになった。新元号の名称のため有識者懇談会で議論が重ねられ今月初めに「令和」と発表された。元号を使っている国は現在、日本だけだそうである。


今週から大嘗祭や皇位継承に伴う行事が秋まで続けられる。天皇は、日本国の象徴として存在しているが、宗教的な権威である大祭司である。日本人の民族精神の基盤を成す「神道」の最高権威が天皇である。心を一つに緊急の祈りが必要である。ウエブサイトで「天皇陛下の仕事」について「一般参賀や地方訪問でのお手振り」などが皇族の仕事だと考えられがちだが、実際は全く異なる。天皇は日本の大祭司として、日々祭祀を執り行い、天神地祇に日本国民の安寧を祈るのが天皇の役割であると書かれていた。

 

全日本リバイバルミッションの主幹であった、故 滝元明師は1970年から田中政男先生と一緒に軽井沢で避暑地伝道をされた。神が、高い地位にある人達のために、祈りなさい(第1テモテ2:1)と命じておられるから。夏の間避暑に来ている多くの有名人のためで、何とかしても伝道をしたいとの願いから始められた。田中先生から、1971年には佐藤総理に会う機会が与えられたり、現天皇の皇太子時代ご夫妻からも招待を受けられ、毎年のように、軽井沢の別荘に招かれ、歓談された事を一緒に撮られた写真を見せていただきよく聞かされた。軽井沢で出会った時、毎日祈っているので親しい友のような感覚で「やあ、美智子妃殿下」と挨拶したのがきっかけだったそうで祈りは全ての扉を開く鍵である。


敬虔で威厳をもって平安で静かな一生を過ごすため、また全ての人が救われることを願ったおられる神の御心を思い新天皇陛下のため、日本のリバイバルのために祈ろう。

 

 

 

 

牧師の書斎 2019.4.21

新緑の眩しい季節となってきた。先週、女性会の野外礼拝で奈良の馬見丘陵公園へ行った。園内のチューリップが花盛りだけでなく、木々の枝から淡い緑色の新芽を見、季節が変わっていく中で心がウキウキし、創造主を心から賛美させられた。


「木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。たとい、その根が地中で老い、その根株が土の中で枯れても、苗木のように枝を出す」(ヨブ記14:7~9)のみ言葉のように命の息吹を感じる。晩秋に落葉し冬の間死んだように見える樹木が、春の到来と共に新しいいのちの息吹を与え新しい衣で覆い、再生させられる神を賛美せずにはいられない。


今日は主が死を打ち破り、墓からよみがえって下さった事を記念する復活(イースター)礼拝である。この時期になると、いつもクリスマスのように商業ベースによって習慣化されて国民的行事となっていない事実がイースターにはあるように思わされている。バレンタインデーはもとより最近では、ハロウィンを祝うことが年々エスカレートしてきている。しかし、イースターだけは商業ベースに乗せないのは何故だろうか?「キリストが十字架にかけられ、三日目によみがえられた」という事をもっともっと宣伝してくれたらいいのに…と。


でも、この世と結託しているサタンがその頭を砕かれ完全にノックアウトされた十字架を認める訳にはいかない。十字架の福音を信じ、その恩寵の恵みに預かって新しい人生を生きている私たち、一人一人が「証人」となってキリストの復活のいのちの現実を伝えていく事を主が期待しておられる。

 

 

 

牧師の書斎 2019.4.14

十字架の意味がよく分からないクリスチャンになる前に、「受難週が始める」と聞いた時、暗いイメージで余り嬉しく思わなかった。今日から1週間、ホーリーウィーク(キリストの受難週)に入る。カトリック教会やプロテスタント教会中ではイースターの40日前(日曜日を除く)灰の水曜日からイースターの前日までの40日間を大切にし受難節(レント)が守られている。元々、この期間は求道者がバプテスマを受けるための準備に用いられたようでもある。「受難節」を何故「レント」と言うのかというと、「日が長くなる季節(春)」を意味し、この期間、キリストの苦しみを分かち合うということから、結婚式などの祝い事はしなかったそうである。


クリスチャンである私たちは、主キリスト・イエスを信じて救われ永遠のいのちに生かされている者である。日頃生活に追われて頭では主キリストを分かっていても不信仰な世の中の惰性的な生活へと流されている事が多いかも。私の罪のため身代わりとなって十字架にかかられた主の苦しみを覚え、ダビデのように「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。」(詩篇32:1)と、主に心から感謝と喜びをささげよう。


救われて神の子とされた喜びは言葉には表すことのできないほどのものである。だから私はこの週を主の受難を感謝し賛美する週としたい。今週の聖書通読の箇所はヨハネによる福音書15章~21章までで、主イエスの告別のメッセージ、主の祈り、十字架に導かれている。主の十字架の道の足跡をたどり感謝と喜びをささげよう。 

 

 

 

牧師の書斎 2019.4.7

南原の町は日本の京都の雰囲気を感じさせる。高麗時代からの歴史的な建造物が多く、国に指定を受けた遺跡や建造物が300以上あり、屋根のない博物館を言われているそうである。


その中でも、日本と関係のある沈寿官陶芸展示館があり、私は今年の1月その展示館を訪ねた。
陶磁器で有名な南原の「陶磁器戦争」とも呼ばれた慶長の役(1592年~98年)の際、薩摩藩と島津義弘は70人の陶工を日本に連行した。この時の陶工たちが薩摩焼の源流となった、と言われている。


司馬遼太郎著書「故郷忘じがたく候」は第14代沈寿官に出会うことによりこの小説が書かれた。400年以上に渡る長い薩摩焼の歴史の祖となった朝鮮陶工たちは遠い異国の地で多くの苦難にあったにもかかわらず、日本はおろか世界にも認められる「薩摩焼」を発展させ伝統を守り続けた。彼らの多くの功績の裏には、機織りの朝鮮国女「むくげの花の少女」のように強い望郷の念、帰郷の思いがこめられていたのであろう、と複雑な思いに駆られる。


慶長の役の時、連れてこられた朝鮮陶工によって有田焼、唐津焼、萩焼をも手掛けられためたものであり、日本の陶芸に大きな影響を与えていることを.思うと日常使っている陶器に植野雅枝さんの「国、民族、人種が違っていてもみんな家族The family of Man」の言葉を思い出さずにはいられない.。全ての事が神のご計画の中にあると信じて、南原と黒潮町との文化交流のため私に何が出来るか祈り求めて行きたい。 

 

 

 

牧師の書斎 2019.3.31

今年の1月下旬、むくげの花の少女の故郷と断定することが出来てから初めて南原を訪問した。釜山から高速バスで約3時間かかって到着した時、私の中に高揚感と、緊張感があった。


南原市の文化院長がまず南原城址を案内して下り、今は西の城壁の一部しか残っていないが、この場所で400年前、城壁を包囲した土佐の大名、長曾我部元親や、小谷与十郎がむくげの花の少女を捕らえ、上川口に連行したことを想像し心が痛んだ。次に、南原郊外の村、寿洞村に案内された。その村は農業が主で昔から桑畑があったところで養蚕業を営んでいる村であった。長い間、忘れられていたむくげの花の少女の故の地に私が何故か立ち、ようやく高知の上川口と南原という点が結び合わされたことを思い喜びがこみ上げてきた。早く、高知に住んでいる「むくげの花の少女」の著者、植野雅枝さんに報告したいとはやる思いを胸に帰国の途に就いた。


それから暫くしてから、文化院長から連絡があった。2月27日に南原市のキリスト教会連合の集会が東北教会で開催されるので、そこで「むくげの花の少女」のことを紹介してほしいと要請された。夜の集会の前に、市長と面談する時間が設定されており、市長はむくげの花の少女の事を聞いて感動され、市として今後の日韓の文化的交流のため協力して下さることになった。


一冊の絵本との出会いから、著者に会い、小谷家の人たち、黒潮町の人々、また韓国の南原の文化院長や市長、牧師先生たちの出会いの中心に主がおられ助け導いて下さっていることに感謝と共に「なんで私が」と思いながら主の御思いに今わくわくしている。  (続きます)

 

 

 

牧師の書斎 2019.3.24

絵本「むくげの花の少女」の著者、植野雅恵さんは地元、上川口に伝わる400年前に連れてこられた朝鮮国機織り少女の話を、ご主人が挿絵を担当されて22年前に自費出版された。


朝鮮から連行された少女は毎日望郷の涙を流す毎日を送っていた。やがて涙は枯れ、機織りをすることで悲しみを忘れようとし懸命に働いた。少女の織る布が美しく、その噂が幡多の郡に広がり、やがて少女に機織りを教えてほしいと遠くからも女の人たちが来るようになった。少女は多くの人たちから愛され、慕われたけれども帰郷は叶うことはなく、やがて亡くなった。「むくげの花の少女」という名は、少女の住んでいた家の庭いっぱいにむくげの花が植えられていたことから付けられたそうである。少女が亡くなってからも、機織りをする人たちの子供から孫へと語り継がれていったのである。


少女を連行した小谷武将5代目の子孫が1700年に墓を作り、今でも土地の人たちから大切に守りつがれている。毎年、小谷家の子孫が墓に集まり、その後で近くにある会所で親睦の時を持っておられるそうである。また、むくげの花が咲く7月には幡多郡の小学生たちも少女のお墓に集まってくるという。


植野雅恵さんは地元の学校が主催する「人権参観日」にゲストとして招かれ、国、民族、人種が違っていてもみんな家族という

「The family of Man」とむくげの花の少女のことを話され、多くの子供たちが感動したそうである。子供たちからの質問の時、「むくげの花の少女の名前は?  朝鮮のどこから来たの?」という質問を何度も受けたが、その都度返答に困ったと言われていた。今回思いもかけないこの関わりを通して400年の歴史に光が当てられるかと思うとわくわくしてくる。    (続く)

 

 

 

牧師の書斎 2019.3.17

J兄の機織り少女の故郷探しは、当初釜山から大邱のルートと断定され、大邱に近い村に養蚕のための桑畑があることが判明し大邱の民族博物館へ行って、民俗学の専門の先生にも会われたが、その後、長曾我部軍は大邱ルートではなく、全羅道南原、全州コースだと分かった。


慶長2年(1597年)8月、秀吉軍は全羅道南原城を包囲下に置き、12日に戦闘が開始され16日に南原城は陥落する。この時、城を包囲した大名の一人は土佐の長曾我部元親で、部下の小谷与十郎が城の陥落後、機織りの少女を土佐の上川口に連れてきた。

 

J兄はウェブサイトで南原周辺に桑畑があるかも知れないと思われ確証を得るため私に南原にいる牧師を知らないかと、尋ねられた。私は、ソウルに住む友人の朴牧師に誰かを紹介してもらえないかとむくげの花の少女の事、また今までの経緯を詳しくかいてメールを送った。すると、すぐにメールで返事が来て、「今、大阪にいます」ということで早速翌日に会うことになった。タイムリーな主の導きを感じながら、絵本を見せて事情を説明させていただいた。話に感動された朴牧師は、むくげの花の少女の故郷探しのため協力して下さることになった。

 

その後、J兄が南原市の教会や市役所とコンタクトを取ろうとしたが進展しなかったため、朴牧師に直接南原市へ行って調査してもらう事になった。南原市で神はこのために最も相応しい人を用意しておられた。南原市の文化院院長である。この出会いは、南原市長や教会を動かす次のステップへと導かれていくきっかけとなった。