牧師の書斎 2018.12.9

先週の木曜日の午後、スマホで返信メールを送ろうとしたが何度試みても送信ができない。そればかりか、通信状態には問題がないのにネットでの検索もできず、電話もできなかった。私のスマホの機器に問題があるのだろうと思いソフトバンクに行くと、スタッフの方が「今、通信障害が発生していて、私たちも困っています」と言われて、回復するのを待つしかないと諦めて家に帰った。

 

夜のニュースでは町中で混乱した様子が流されていた。今やスマホを持つことによってキャッシュレス、コンサートのチケットレスの時代となり戸惑っている人々、ナビが使えないので道に迷う人、今やスマホは生活の一部ではなく、スマホがなければ仕事も生活も出来ない、ライフラインになっていることを感じた。数年前、教会に来ていた高校生がスマホの事を「いのちの次に大切なもの」と言っていた言葉に私は驚いたが、今やそのような価値観をもっている人が少なくないと感じている。

 

ライフライン(Life Line)とは「命綱」という意味である。しかし、こんなに簡単に命綱が切れることがあっては、命が何個あっても足りないのではないか。また、自然が豊かな日本では地震、台風など自然災害が他の国よりも大変多くこれを避けることはできない。災害が発生するときいつもライフラインの復旧が最優先されてくる。

 

ライフラインの事を考える時、神とのライフライン(命綱)のことを思う。スマホでは機器の不具合によって、また場所によっては圏外になったりして繋がらない時がある。しかし神はいつでも、どこにいても私の傍にいて下さるのでライフラインは絶対に切れることはない。神は「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。私はあなたを助け出そう」(詩篇50:15)と言われた。永遠に切れることのない、神のライフラインの上に希望を持って生きていこう。 


 

 

牧師の書斎 2018.12.2

今日から待ちに待ったアドベント(待降節)に入る。昨日、教会ではクリスマスの飾り付けを行ったが、巷ではもうすでにクリスマスの飾りつけが1カ月以上前から始められ、クリスマスセールも始まっている。


先日、妻と一緒に大型ショッピングセンターへ買い物にいった。店内に赤いクリスマスツリーを描いたものをあちらこちらの天上からぶら下げたり、陳列台の上に置かれ、とクリスマス商戦を実感していたが、そのキャッチフレーズ「さあ もっとクリスマスをしよう(More Christmas) 」に二人とも苦笑した。ウェブサイトでは「クリスマス毎年やってくる。だからこそ、いつもと同じじゃつまらない。去年よりも、もっとクリスマスしたい。もっと、贅沢なごちそう。もっと、ワクワクする飾りつけ。もっと、ドキドキする贈り物。あなたを、あなたの大切な人が、もっと感動できる、そして幸せになるクリスマスを、今年は〇〇〇で叶えてみませんか。一年に一度の特別な日は、もっと特別にできる。さあ、あなたはどんなクリスマスする?」とあった。まさに、クリスマスの意味を知らない、あるじ(主)のいないパーティー・・・クリスマス商戦真っ最中である。


50年も前の話で恐縮だが、献身した頃のこと、教会に地域の子供会の会長の方が来られ、子供会でクリスマス会を開催する予定があるが子供たちにクリスマスの話しをしてほしいと頼まれた。当日地域の集会所に行くと大勢の子供たちが集まっていた。マリヤとヨセフに天使が語られイエス様の誕生、そして十字架までのメッセージを真剣に聞いてくれた子供たちのその時の顔を忘れることは出来ない。

 

「カタチ」だけのクリスマスに流されないように「霊とまこと」によってキリストを礼拝する(クリスマス)事を心に覚えて、救い主をお迎えする準備期間(アドベント)を過ごそう。

 


 

 

牧師の書斎 2018.11.25

テレビニュースでアメリカ北部の大規模な山火事を見た。消防士たちの必死の消火活動にもかかわらず、高級住宅地パラダイスの町全体が火に包まれて壊滅的な映像を見火事の恐ろしさを改めて感じた。


毎日ニュースで流される情報では、一週間以上消化活動を続けられているが、なす術がなくいまだに鎮火する様子もない、という悲惨な状況である。そのような中である消防隊が「バックファイヤー作戦」を実行された。それは炎の進行方向の先を焼くことで延焼を食い止める作戦である(古の頃からの消火方法であるが‥)。燃えた所は燃えることがない、火をもって火を制するのである。このニュースを見ていた時に以前聞いたメッセージを思い起こした。かわいた草原の中、大火に遭遇した集団みんなが川に逃げようするが、ひどい火勢で追いつかれそうになる。その時一人の人が後方の草に火をつけた。前から吹いてくる風によって後方が燃えて行き、一行は燃え落ちた所に立ったのである。最初はみんなが心配をし焼け死んでしまうのではないかと思ったそうである。しかし、なすべき事を知っていたその人は「私たちは火事の済んだ場所に立っているのです。燃えるもののない所では火は燃えないのです」と言った。

 

主を受け入れることは丁度このようなことである。主を受け入れた時、主がもはやそのために罰を受けたので、私たちは自分の罪のために罰せられない。主イエスは私たちのためにすべての事をして下さった。
「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義の為に生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」Ⅰペテロ書1:21


主イエスの十字架の身代わりによって私自身の罪の代価が払われ救われた事を感謝しよう。ハレルヤ!


 

 

牧師の書斎 2018.11.18

私たちの教会では開拓伝道の時代からは行っていなかったが、数年前から収穫感謝礼拝を始めている。日本の教会ではあまり馴染みがないのではないかと思っている。JECは戦後スウェーデンの宣教師によって関西を中心に宣教が始められたが、教会では秋の収穫感謝礼拝をすることは無かったように思う。

 

収穫感謝祭はイギリスからアメリカのマサチューセッツ州のプリマスに移住したピルグリム・ファーザーズ(清教徒)の最初の収穫を記念とする行事であると言われている。ピルグリムがアメリカに着いたその冬は大変厳しく多くの死者を出したが、翌年、近隣に居住していたインディアンからトウモロコシなどの新大陸での作物の栽培知識の教授を得て生き延びられ、翌年の秋は、特に収穫が多かったのでインディアンのワンパノアグ族を招待して、神の恵みに感謝してご馳走をいただいたことが始まりであると言われている。


数年前に井野葉由美宣教師を支える会から、ドイツのハンブルグに行かせていただいた。その時丁度収穫感謝礼拝に出席することが出来た。大きなドイツの教会の講壇の周辺に野菜や果物が所狭しと積み上げられていて驚いた。私たちの教会でも収穫感謝祭を採り入れることで何度か執事会で議論をした。色々な意見が出されたが、私たちにとって、教会にとって「収穫とは何か?」と考えると、やはり救われ、バプテスマを受けた人々たちである。「ひとりの罪びとが悔い改めるなら、神のみ使いたちに喜びがわき起こるのです」(ルカ15:10)とあるように、天において大きな喜びがある。また教会においてもこの上もない喜びがある。

 

この年、宣教のため日々祈り、また涙を流し宣教し、また汗を流してパンフレット配布をしたりした犠牲を神に覚えられて収穫することが出来たことを感謝し、栄光を神にお返しする時であると.思っている。主にあってあなた方の労苦が決して無駄に終わることがないと固く信じている。私たちが天に帰る時、この地上でバプテスマ式を見なかった兄弟姉妹を見ることを神に感謝すると共に、兄弟姉妹の奉仕に感謝します。

 

 

 

 

牧師の書斎 2018.11.11

先日の読売新聞に、「読売中高生新聞」が全国の中高生二万一千人に「平成後の時代に大切にしたい価値観」などを尋ねるアンケートを実施した記事が載せられていた。40個の言葉の中から最大3個まで選ぶ方式で、1位は「平和」で全体の41%を占めた。戦争のない世の中を望んでいる。2位は「安全」で、自然災害の恐ろしさや備えの大切さをあげる回答が多く、3位は「安心」と、こちらはいじめや虐待をなくそうと書いた生徒が目立ったそうである。誰しも穏やかな暮らしを望む傾向が伺えられた。


一方で経済的な豊かさや社会的な進歩に関する言葉は伸びず、「発展」は9位、「競争」は28位だった。
次世代を担っていく中高生が物質的豊ではなく、いのちの大切さを求めていることを知り日本の将来に希望が見えたように思わされたアンケート調査だったようである。


数週間前に礼拝でマタイによる福音書の丘の上の祝福のことばから「平和をつくる者(ピースメーカー)は幸いである」とメッセージした。現実の世界は国と国との争い、民族と民族との争い、また宗教的違いによる争いが絶え間なく続いているが、問題の本質は全ての人の中にある罪の問題である。


自分の罪を悔い改め主イエスを信じて「神との平和」を持つことによってピースメーカーとされるのである。
イスラエルでは「シャローム(神の平安があなたにありますように)」という言葉で毎日の挨拶が交わされる。
クリスチャンである私たちも日々、周囲の人々に神の平安が与えられるように祈り、証ししていこう。

 

 

 

 

牧師の書斎 2018.11.4

昨日はオープンカフェが出戸で開催された。以前はバザーという名前で開かれていたが、今は女性会が中心で行うようになってオープンカフェに名前が変更され、出戸で続けられている。この日の為に数か月前から姉妹達が取り組んでいる。前日の金曜日も多くの姉妹たちが朝から夕方まで忙しくされていた。夕方、幾つかの食品のポップが不足していたのでPCで作成し、近所のコンビニでコピーし店を出た時、真っ赤に染まった西の空をしばらく眺めていた。明日は好天になると感謝した時に、聖歌622番「夕べ雲やくる」の歌詞「夕べ雲やくる空を見れば 主の来たりたもう 日のしのばる ああ神の前に我いそしまん 業やむる時のまぢかき今」と思わず口ずさんでいた。


主は「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる』と言う・・・空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることが出来ないのか」(マタイ16:3)と律法学者たちを戒められたが、夕焼けを見ながら主がもう一度再び来られる日が近いことを覚えながら私たちの教会の一日一章の聖書通読箇所がこの3週間、黙示録の、天上の喜びのコーラスから千年王国、新天新地を通読し天にある故郷のことを思うと心は躍る。


妻の姉が、主イエスを信じる決心に導かれた時の事を思い出す。妹から日ごろ主イエスが再び来られることを聞かされた時、おとぎ話のように感じ他の人に話さないようにと戒めたそうである。ところが、ある日電車の窓から綺麗な夕焼けを見た時、妹が言っていたように、イエス・キリストが綺麗な雲に乗ってこられるのはこんな日なんだろうか、と思ったそうである。そして教会に来るようになり、信仰の決心をし、今も喜んで夫と共に感謝の日々を過ごし励んでいる。たとえ家族や友人が.聞く耳を持っていなくても福音を語り続ける事の大切さ教えられる。

 

 

 

 

牧師の書斎 2018.10.28

先週、出戸会堂でフィンランド人の元宣教師ヘイモネン先生をゲストに迎えてコンサートを開催した。八尾南の礼拝や女性会の集会には何度か来ていただいたが、出戸では初めてであった。一時間余りピアノを弾きながら多くの賛美をして下さった。マイナー調のフィンランドの聖歌は日本人の心にフィットし、出席された多くのノンクリスチャンの心の琴線に触れられているのを感じた。

 

先生が日本を代表する童謡「赤とんぼ」を歌われる時、作詞者の三木露風はクリスチャンであると紹介をして下さり、歌詞の意味を説明された。
「赤とんぼ」は三木露風が洗礼を受ける前の年に作詞したそうで、4節の「夕焼け 小焼けの 赤とんぼ とまっているよ 竿の先」との歌詞で「竿の先の止まったとんぼを見ると十字架に見える。私たちは十字架のもとで羽を休め背負われて生きることが出来ると解説されて歌われた。

 

先生が歌っている間、思わず私も一緒に口ずさんだが、初めて出席されている中の数名のノンクリスチャンの方も口ずさんでおられた。
童謡の歌詞で歌われた後、続けて日本の牧師が作詞した替え歌は私の心に大きく響いた。1節「主は罪びとなる我をさえ 憐れみ 恵みて いのちをも与え「子よ」とぞ 呼びたもう いかなる愛ぞや 計られる」
2節「この愛ゆえに われ答えん この身も魂をも 主にささげ このみ恵みをぞ 伝えなん こころの限りに 賛美せん」歌詞はこの後も続くが、省略する。

 

ちなみに、「赤とんぼ」の詩に曲をつけたのは、よく知られた山田耕作で、彼の父親は牧師である。お姉さんも宣教師と結婚されたようで、山田耕作は母親の背中で賛美歌を聞きながらクリスチャンホームで育てられた。彼の「赤とんぼ」や、他に多く作曲しているが賛美歌の影響が濃いのは確かのようである。集められた方々が神に出会える事を願いながら赤とんぼを今日も口ずさんでいる。

 

 

 

    

牧師の書斎 2018.10.21

日本語で「教会」という名称は様々な宗教団体で使われている。昔、子供の特別伝道会で沢山の新しい子どもが集っていた。その時、「前に教会に行ったことがありますか?」と質問をすると、一人の女の子が手を挙げた。私は「どこの教会ですか?」と聞くと、その子は「天理教会」と答えた。教会の近くにも新興宗教の施設があり、以前間違って教会に来られた人もいる。


主は「わたしはこの岩の上にわたしの教会(エクレシア ekklesia)をたてます。ハデスの門もそれには打ち勝てません」(マタイ伝16:18)とペテロに言われた。エクレシア(ekklesia)」はギリシャ語で、訳すと「召し出された者たち(会衆)」となり、この意味を反映させると教会は「召会」となる。一般的には社会的認知度を考慮し、「教会」という用語がよく使われるが、原文の「エクレシア(ekklesia)」には「教」の意味合いが含まれていない。

 

上述の理由により、教会ではなく「~にある召会」とネーミングされたキリスト者の群れもある。私たちは、この罪のこの世から召し出された者たちの集まりで、一つのキリスト・イエスのからだにバプテスマ(いのちの結合)されたものである。「キリスト・イエスを基として、うち建てられし教会は 君が血をもて買いたまいし、花嫁たちの集まりなり」(聖歌201番1節)。


キリストの教会には様々なネーミングがされている。「~チャペル」、「~いつくしみ教会」、「~祝福教会」、「~グレースチャペル」、「~コミュニティ教会」、「~シャローム教会」等々。出戸の新会堂は「出戸バイブルチャーチ」ではなく妻と他の名前を考えている。妻が最初提案した名前は、もうすでに他の教会が使っているので却下された。新会堂のために祈るだけでなく、この事を考えて夢が広がり楽しくなってくるものだ。

 

 

 

    

牧師の書斎 2018.10.14

今年もコスモスが届けられた。1985年10月次女が天に召されてからずっと30年以上忘れないで届けて下さっている。別の姉妹も白百合を10年以上、いやもっとかもしれないが続けて届けて下さった。有難いことと感謝している。この時期は、普段よりも空を見上げることが多く、真っ青に果てしなく続く空の向こうにある所を思い、神の御思いに心を馳せる、私の至福の時である。


今年は雨空や雲が覆っている日が多く、大きな雨や地震での自然災害でご苦労されている方々の事が気にかかるが…被災された方々に神の憐みが注がれ、神に近づくことが出来ますように祈らされている。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」と主イエスは言われたが、次女を先に天のお父様の元に送ったことで私にとって天の御国はずっと近いものとなった。


次女の死を経験して「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神が全ての事を働かせて益として下さることを私たちは知っています」(ローマ8:28)との御言葉を当時は受け入れることができなかったが、それからの私にとって天の御国は最も近い現実となり、文字通り私の信仰生活に益として下さった、と確信している。


更にゴールから目を離さないで「神は最善の神」であると、宣言しながら忍耐をもって一事に励んでいきたいとも願わされ感謝している。
「すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリストイエスに於いて上に召してくださる神の栄冠を得るために目標を目指して一心に走っているのです」ピリピ3:13~14)

 

 

    

牧師の書斎 2018.10.7

学校の運動会シーズンである。今年は週末にやってくる台風で平日に順延する学校が多く、関係者の方々にとってはやきもきする日が続いているようである。

 

子供たちの多彩な演目、競技を見るにつけ、連日指導されている先生たちのご苦労に頭が下がる。
低学年の可愛らしい演技や高学年による組み立て、騎馬戦、リレー等々紅白二つに分かれて熱戦がくり広げられる姿に元気をもらえる。ゴールを目指して一心に走る姿にパウロの言葉を思い、一本の綱に紅組、白組が対面し両者が思いっ切り引っ張り合う綱引き競技を見ながら信仰生活における経験、肉と霊の綱引きのことを想像する。

 

主イエスを信じて救われた時、古い私の肉に、新しいいのちである聖霊が私たちの内に住まわれる。日々、勝利ある信仰生活をするため「御霊によって歩みなさい」と神は命令されている。「そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはない」(ガラテヤ5:16)。しかし、毎日の生活の中で、生まれつきの罪に支配された自分の肉、古い性質が絶えず戦いを挑んでくるのを誰しも経験している。そしてパウロがローマ書7章に記されているように「自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っている」自分にどれほど嫌気を感じたことだろうか。生まれつきの自分と神のみこころを行わせる力である聖霊とこの二つは互いに相逆らう力である。私たちはこれら二つの力から離れて、私たちは自分の思い通リに生活をすることは出来ない。

 

幸いなことに今、私はこの古い自分の性質を十字架につける以外に解決の道はないことを御言葉によって知っている。だから「古い福島は十字架にかけられて死んだ。今生きているのは、古い福島ではなく、キリストが生きておられる」(ガラテヤ2:20)と朝ごとに宣言して肉と霊の引っ張り合いから勝利している。ハレルヤ!

 

 

 

    

牧師の書斎 2018.9.30

先週、関西にある在日大韓基督教会の研修会にお誘いを受け参加させていただいた。


声を掛けてもらった時参加して良いのかしら?でも、車で送迎してもらえるし…「交わり」だけでも有難いとの思いであった。講師は、北朝鮮宣教のビジョンを持ち、現在ソウルで脱北信徒を中心に宣教の働き手を育てておられるニューコリア教会担当牧師の丁師と、自ら10年以上の潜伏経験を持ち脱北された金牧師夫人のお二人で「北朝鮮宣教の鍵は脱北者です!」と熱く語られた。


わたし自身は、時折テレビのドキュメント放送で、北朝鮮の人たちが貧しく食べものにも事欠き苦しんでいる様子に深く同情するとともに、独裁者に対する怒りや不快な思いがこみ上げ「近くて遠い存在の隣人」に対して同胞の拉致を繰り返すひどい国家としか関心が無かった。
参加者60名中、日本人参加者は一人、神様は身近な隣人に対して無関心であった私を引っ張り出して悔い改めるように、導かれたのだと思わされている。


今、南北統一が近いとされている。まだまだ命がけで脱北を試みる人たちが後を絶たない中、近くて遠い隣人のためにクリスチャンとして何が出来るかと心に問いながら祈らされている。