牧師の書斎 2018.10.14

今年もコスモスが届けられた。1985年10月次女が天に召されてからずっと30年以上忘れないで届けて下さっている。別の姉妹も白百合を10年以上、いやもっとかもしれないが続けて届けて下さった。有難いことと感謝している。この時期は、普段よりも空を見上げることが多く、真っ青に果てしなく続く空の向こうにある所を思い、神の御思いに心を馳せる、私の至福の時である。


今年は雨空や雲が覆っている日が多く、大きな雨や地震での自然災害でご苦労されている方々の事が気にかかるが…被災された方々に神の憐みが注がれ、神に近づくことが出来ますように祈らされている。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」と主イエスは言われたが、次女を先に天のお父様の元に送ったことで私にとって天の御国はずっと近いものとなった。


次女の死を経験して「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神が全ての事を働かせて益として下さることを私たちは知っています」(ローマ8:28)との御言葉を当時は受け入れることができなかったが、それからの私にとって天の御国は最も近い現実となり、文字通り私の信仰生活に益として下さった、と確信している。


更にゴールから目を離さないで「神は最善の神」であると、宣言しながら忍耐をもって一事に励んでいきたいとも願わされ感謝している。
「すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリストイエスに於いて上に召してくださる神の栄冠を得るために目標を目指して一心に走っているのです」ピリピ3:13~14)

 

 

    

牧師の書斎 2018.10.7

学校の運動会シーズンである。今年は週末にやってくる台風で平日に順延する学校が多く、関係者の方々にとってはやきもきする日が続いているようである。

 

子供たちの多彩な演目、競技を見るにつけ、連日指導されている先生たちのご苦労に頭が下がる。
低学年の可愛らしい演技や高学年による組み立て、騎馬戦、リレー等々紅白二つに分かれて熱戦がくり広げられる姿に元気をもらえる。ゴールを目指して一心に走る姿にパウロの言葉を思い、一本の綱に紅組、白組が対面し両者が思いっ切り引っ張り合う綱引き競技を見ながら信仰生活における経験、肉と霊の綱引きのことを想像する。

 

主イエスを信じて救われた時、古い私の肉に、新しいいのちである聖霊が私たちの内に住まわれる。日々、勝利ある信仰生活をするため「御霊によって歩みなさい」と神は命令されている。「そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはない」(ガラテヤ5:16)。しかし、毎日の生活の中で、生まれつきの罪に支配された自分の肉、古い性質が絶えず戦いを挑んでくるのを誰しも経験している。そしてパウロがローマ書7章に記されているように「自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っている」自分にどれほど嫌気を感じたことだろうか。生まれつきの自分と神のみこころを行わせる力である聖霊とこの二つは互いに相逆らう力である。私たちはこれら二つの力から離れて、私たちは自分の思い通リに生活をすることは出来ない。

 

幸いなことに今、私はこの古い自分の性質を十字架につける以外に解決の道はないことを御言葉によって知っている。だから「古い福島は十字架にかけられて死んだ。今生きているのは、古い福島ではなく、キリストが生きておられる」(ガラテヤ2:20)と朝ごとに宣言して肉と霊の引っ張り合いから勝利している。ハレルヤ!

 

 

 

    

牧師の書斎 2018.9.30

先週、関西にある在日大韓基督教会の研修会にお誘いを受け参加させていただいた。


声を掛けてもらった時参加して良いのかしら?でも、車で送迎してもらえるし…「交わり」だけでも有難いとの思いであった。講師は、北朝鮮宣教のビジョンを持ち、現在ソウルで脱北信徒を中心に宣教の働き手を育てておられるニューコリア教会担当牧師の丁師と、自ら10年以上の潜伏経験を持ち脱北された金牧師夫人のお二人で「北朝鮮宣教の鍵は脱北者です!」と熱く語られた。


わたし自身は、時折テレビのドキュメント放送で、北朝鮮の人たちが貧しく食べものにも事欠き苦しんでいる様子に深く同情するとともに、独裁者に対する怒りや不快な思いがこみ上げ「近くて遠い存在の隣人」に対して同胞の拉致を繰り返すひどい国家としか関心が無かった。
参加者60名中、日本人参加者は一人、神様は身近な隣人に対して無関心であった私を引っ張り出して悔い改めるように、導かれたのだと思わされている。


今、南北統一が近いとされている。まだまだ命がけで脱北を試みる人たちが後を絶たない中、近くて遠い隣人のためにクリスチャンとして何が出来るかと心に問いながら祈らされている。

 

 

 

    

牧師の書斎 2018.9.23

先週、妻と一緒にテレビを見ていてチャンネルを変えている時、進化論に基づいた人類の起源という番組が放映されているのに目が止まりしばらく見ていた。科学上、仮説にしか過ぎない進化論が、あたかも不変の真理であるかのように放映され、大勢の人たちが何の抵抗も感じないで見ていることを思い、またこのような類の番組を孫世代も視聴していると想像すると心が痛んだ。


「種の起源」を唱えた有名な進化論者、ダーウィンは晩年には唱えた説は誤りだったことを後悔していたそうである。人は決して偶然の産物でなく、神が愛する対象として創造され、意味と目的をもって造られたのである。
一番大切なことの答えが聖書に書かれている。「創造主なる神を畏れることが知識の初めであること)」(箴言1:7)と。多くのノンクリスチャンの教師が何の疑問も抱かないで進化論を教えている日本の教育に不毛の根本的な原因があると言われている。

 

物理学部門でノーベル賞を与えられた湯川秀樹博士が「人類にとって最大の発見は物理学ではなく、人はどこから来て、なぜ生きているのか、どこへ行こうとしているのか、という問いに答えを得る事である」と言った。
進化論とは違い、聖書は明確に、すべての生きとし、生けるものは創造主である神によって造られたと語っている。その聖書の真理に立って、宇宙の誕生を説明したものが創造論である。


同志社大学の創始者である新島襄が、聖書の冒頭のみ言葉、「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1:1)を読み、神を信じクリスチャンになった。聖書は、天と地の創造に続き、すべての生物と人類の誕生について語り、その創造の意味を「すべての事が、神から発し、神によって成り、神に帰するからです」(ローマ書11:36)と語っている。ここに造られた人間の意味が、明確に示されている。人間は決して偶然の産物ではない、神が愛する対象として意味と目的をもって造られた事を知るように、学校教育の中にも創造論のカリキュラムが採り入れられるように祈ることを止めないで手を上げていきたいと願わされた。そこに日本の未来があることを信じている。

 

 

    

牧師の書斎 2018.9.16

明日は「敬老の日」。兵庫県の小さな村で農閉期の9月15日を「年寄りの日」と定め敬老会を開いていた慣習が1950年から兵庫県全体で行われるようになり、その後「老人の日」と改称され全国に広がっていった。1965年、多年社会に尽くしてきた老人を敬愛し長寿を祝い9月15日を国民の祝日と制定された。2003年以降は9月の第3月曜日に変更され現在に至っている。


老人福祉法では老人は「65歳以上」と定められている。また世界保健機構(WHO)の定義では65歳以上のことを高齢者としている。2017年9月15日の時点で高齢者人口が3514万人となり、総人口比は27.7%となり、まさに今日本は超高齢者社会を迎えている。元気でバリバリ社会に貢献されている高齢の方々もおられるが、私自身敬老の日を前にして、人生の終着について語る伝道者の書12章のみ言葉が響いてくる。1節に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」という年月が近づく前に」と記されている。18歳の時にイエス・キリストを信じ救われた私は、天の御国に入れられる保証だけでなく、半世紀あまり主の変わらない愛の中、数えきれない神の御業で生かされ、家族が与えられ、人生をも救われ実にこの世における2重の恵みに感謝している。

 

創造主を認めない者が年老いて「何の喜びもない」状況を「太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう」(12:2~)と冬の暗い光景等に象徴的表現で描かれている。3節以降にも年寄りの腕は震え、背は丸くなり、「粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ」とは、歯が抜けた様を、「目は暗くなる」は、視力も衰え「通りのとびらは閉ざされ」は、聴力も衰え「人は鳥の声に起き上がり、歌を歌う娘たちはみなうなだれる」とは睡眠が浅くなり、朝早く目が覚める。これらの事は70歳を超えた私の肉体において現実にも体験していることであるが…。

 

超高齢者時代を迎えている今、クリスチャン老人が自ら立ち上がって神から与えられたミッション、宣教への思いを確かにして「何の楽しみもなく」生きている人たちに神のいのちに生かされ恵みの人生に入れられるように「敬老の日」を伝道の日と捉えて祈っていきたい。

 

 

    

牧師の書斎 2018.9.9

火曜日、最強の台風21号はどのコースを取るのだろうかと気になり朝から何度もニュースを見入っていた。


子供の頃から室戸岬からのコースなら大阪周辺の直撃は免れないことを聞いて知っているので…。昼前から風が強くなってき、午後には非常に強い風雨が窓をたたきつけた。57年前の中学生の頃に経験した第二室戸台風を思い出した。ゴーという風の音、板を打ち付けた窓を大きな力で突き破るような強風の中、恐怖を感じたのを今でも鮮明に記憶している。夕方になってテレビのニュースを見て驚いた。大阪市では最大瞬間風速が47.4mを記録した、と言う。走行中の車が強風で横転する様子や駐車場の車が何台も横転し車体がボコボコになっている。また関西空港が高潮によって滑走路が浸水し空港機能が完全にマヒし、8000人の人たちが身動き取れない様子などが次々に映し出される映像を見、近くで起こっている大型台風通過の状況を改めて知らされ言葉を失った。


水曜日のニュースは一日中台風の被害状況が流され、台風の恐怖から覚めないなか床に就いた。が、その興奮も冷めやらぬ翌日未明(木曜日)、北海道で震度7の地震発生のニュースに驚かされた。時々刻々と被害状況のニュースが流れ、夕刊に震源地の厚真町近郊の大規模な土砂崩れによって山肌が削られ家屋が押し流されている無残な写真を見て心が引き裂かれる思いであった。


隣で妻が「明日はどんな日か、私は知らない。晴れか嵐か 曇りになるか 私は明日を心配しない イエスが私を守られるか 明日は私にはわからないけど 明日を守られる イエスがおられる」と何度も口ずさんでいた。私たちが住んでいる日本列島全体が活断層の上にあり、いつ地震が発生してもおかしくない地盤の上に住んでいるといっても過言ではない。私たち皆が自分たちの人生にいつ何が起こるか分からない不確実な生活を毎日送っている。以前にも牧師の書斎で書いたが、地震があった時、妻がとっさに「イエス様!」と叫んだ。緊急事態の時、私たちの第一声はどんな言葉を発するだろうか。このように「イエス様!」と叫びたいものである。

 

 

 

牧師の書斎 2018.9.2

厳しい夏の暑さが続いていたが、暦の上では9月に入り秋を迎えた。昨日、9月1日は関東大震災が発生した日であって、この日は「防災の日」と定められた。地震や台風、高潮、津波などの災害についての認識を深め、それらの災害に対処する心構えを準備を怠ることのないように覚える日でもある。「天災は忘れた頃にやってくる」と物理学者の寺田寅彦氏の言葉であるが、過剰に心配し恐怖感を抱く必要はないが、私たちの心の内のどこかで「うちは大丈夫」、「自分は被害に遭わない」と思っている。本能的なものらしいが、過剰反応を抑制し、異常事態でも正常の範囲と認識する安全装置「正常性バイアス」が働いているというのである。しかし、それが固定観念となってしまい、いざという時に判断が鈍り避難を遅らせる結果にも通じるから厄介なことである。


気象予報によれば、今週には今年最強レベルの台風21号が日本に近づきつつあると言う。台風がもたらす集中豪雨の心配が被災地だけでなく日本列島を覆う。昨今話題になることの多い南海トラフ地震も30年以内に発生する確率が、70~80%と言われ、今この瞬間も含めて起こることを意味していて、時間経過とともに危険度はさらに増していっている。このようにいつ起こってもおかしくない災害に対して心備えが必要である。

 

関東大震災の時に、宣教師J.V.マーティンによって、「とおきくにや」が作られ、やがて讃美歌となった。「東京大震災の9月1日(1923年)の夜、九死に一生を得た人々に蚊帳とろうそくが支給された。その夜、たまたま東京にいた私は明治学院に見舞いに来たところ、蚊帳の中で点火されたろうそくの火が丁度、暗の中の十字架に見えたのです。私はさっそくペンをとりこの詩を書きあげ、その後大阪に帰ってこの曲をつけました。♪揺れ動く地に立ちて、なお十字架は輝けり…」と作詞された背景をこのように語られた。


明日、否、次の瞬間何が起こるかわからない不安の中、イエスの十字架の福音によって、揺るがない神の平安の中で生かされていることを感謝している。異常気象だけでない様々な不安の要因の中にいる多くの方々に「グッドニュース:福音」を届けよう。

 

 

 

    

牧師の書斎 2018.8.26

先週、孫たちと一緒に大阪南港のATCで開催されている「からだのひみつ 大冒険DX」に見学に行った。


からだのひみつ大冒険は、アメリカでベストセラーとなった絵本「グロッソロジー(君のからだのきたないもの学)」を通して、“からだから出るキタないモノ(ウンチ、おしっこ、オナラ、ゲップ、ハナミズ、オナラ等)には大切な役割がある!”事を知り、からだの“ふしぎさ”を学べる体験型のイベントとして開催されている。大きな口の形をして入口を通ると、胃の中に来る。大人の胃はペットボトル1.5リットル分の食物が入り、食物を砕いてドロドロにすると解説される。そして栄養を吸収する小腸を通リ、大腸にやってくる。大腸は小腸から来たドロドロの物から水分を吸収し、残ったものがウンチとして排泄される。肛門はすべり台になっていてウンチとなった者が元気よくお尻から滑り出ますと解説されていて大変興味深く感じた。うんちくQ&Aのコーナーがあり「象の一日のウンチは?」、「象のウンチで作られているものは?」とは面白かった。答えは「100㌔グラム」と「コーヒー」で大変驚いた。ウンチはからだから出る汚いものであるが、当たり前の事であるが、これがでなければ生きることは出来ない。
便秘の時にどれほど気分がすぐれないか経験している。


クリスチャン作家の三浦綾子さんはよく便秘をされたそうだ。自著の中で、排便の時にいつも神に感謝している事を書いておられたのを印象的に覚えている。排便は当たり前のことであるが、便秘の時には三浦綾子さんの言葉を思い出す。二十歳ぐらいの時、知人のK牧師が礼拝の中で献金のお勧めをされた。「たとえ方があまりよくありませんが・・・」と前置きしてから「口から美味しいものを食べるでしょう。美味しいものを食べてばかりではいけないのではありませんか? ちゃんと排便をしなければならないでしょう。神の恵みをいただくばかりではなく、神に感謝のささげものをしましょう」と、「出す」という事を言いたかったんだと思うが、その時の話しがいまだに覚えている。


子供たちが小さな時に、いつも家内が「お手洗いに行ってウンチが出たら感謝するんよ」と何度も何度も話していたことを思いだした。今は、孫たちにやっぱり同じように言っている「ウンチが出たら感謝しますやよ~」

 

 

 

    

牧師の書斎 2018.8.19

先週金曜日の一日一章に、神のお心がはっきりと分かっているにもかかわらず…使者を引き留めたバラムに神の怒りが燃え上がり、神がロバをお使いになった(ロバが人間の言葉を話し)箇所(22節)を通読し、10年前夏(丁度今頃)のことを思いだした。娘が子宮体癌と診断を受け、早く子宮を取り除かなくては転移し大事になると医師の言葉に愕然とした。

 

「何で娘なんですか。彼女はあなたのために一生懸命頑張っているのに…」祈れない日々が続いていた9月の20日過ぎの聖書通読が民数記22章であった。抜き身の剣を持った主の使いを見たロバが話し出した箇所を何度も読み返していると、リビングのソファに座っている愛犬に「神様はあなたに何も言っておられないの?」と話していた。その日から毎日彼に訊ねた。祈っても何も答えがない暗闇にいるような日々が続く中いつも暇そうにしている彼に朝に夕に聞いていた「神様は何か言われた?」ロバの口を開かれたように「リーファ」の口を開かれると本気で信じていたのではなかったが、そうでも言わなければ心が潰れる様に思われた。12月12日は、長く伝道に携わりご主人を先に天国に送られた牧師先生の記念会が例年開かれていて、近所なので今年も手伝っていた。礼拝の部分が終わり、食事のテーブルを囲み午後の部が始まった。

 

私の前の席に初めてお会いする岡崎から来られた婦人牧師が座られた。順番に自己紹介があり、会も終盤に差し掛かった時、「遠いので先に帰ります」と挨拶をして席を立たれた。が何を思われたのかテーブルをグルリと回られて私の所に来られ「実は私も肺がんが癒されたんです。今日はその証のために来ました」と耳打ちされ帰って行かれた。「それは良かったですね。気を付けてお帰り下さい」としか言えずにそのまま私も片づけを終えて家路につきそのまま翌朝まで気づかずにいた。朝目を覚ました瞬間「あれは、主です」とベッドから飛び起きた。毎日毎日飽きもせずに「リーファ」の顔を見、「何かいう事?」と急かしていたのにロダにように実際目の前にしたら悟れない愚かな私が露呈した。

 

神様は確実に癒しを手にするまでもう少し信仰を働かせ祈ることを教えられたことは感謝であった。翌年2009年2月23 日月曜日、午後2時半過ぎ「お母さん、癌が消えたよ!」と弾ける声の娘からの電話を受けた。ハレルヤ!今彼女は2児の母として日々奮闘している。

 

 

 

    

牧師の書斎 2018.8.12

2年間の教会成長セミナ―の学びを通して与えられたビジョン「十字架から流れるバリアフリーの宣教」を20年近く祈っている。アブラハム、イサク、ヤコブ世代、親から子、子から孫へと信仰が継承されていくことが私の牧会理念である。日本のプロテスタント宣教が150年以上になっても1%の壁が破れないのは、信仰が一代で終わってしまう現実にあると言う。神がアブラハムを選び、祝福の基とされたのは、多くの人々を祝福し、その子どもと後の家族に主の道を守らせるためである。


私たち夫婦に預けられた子供たちの信仰の継承のため、神の一方的な恵みによって守られていることを感謝している。子供たちが小さな時、私自身はまだパート勤めをしていて時間的な余裕がなく関わることが出来なかったが、妻が母として子供たちのために祈りを持ってしっかり霊育してくれ今まで信仰がまもられていることに感謝している。まだ幼いが、孫たちが主イエスを信じてバプテスマを受け、三代目のクリスチャンが誕生することが私たち夫婦の希望であり喜びであり、責任である。1に祈り、2に祈り、3に祈りである。それまでは天国に帰ることはないと信じている。

 

これからの少子化時代、教会学校伝道の難しい現状は将来の日本の教会全体が危機的な方向へと向かっている。2004年に「教会からクリスチャンホームの子がいなくなる」という翻訳本が出版された。原書のタイトルは「Right from Wrong」で、1994年に発行された。今から約34年前のアメリカで起こっている現実の調査を元にして書かれた。アメリカで起こっている事はほぼ間違いなく日本にその影響を及ぼす。訳本の「どうしたら次世代に聖書の基準を継承できるのか」という副題は、深刻、かつ危機的な問いかけである。しかもその問題の根は深い所にある。原著者は「子どもの教育に対する大きな変化は、子どもに対する第一の教育の責任は自分である、と考えていない親の頭の中で起こったのだ」と訴えつつ、不変・普遍の真理に立ち返るように促している。


 次週の礼拝後、2人の子供がバプテスマを受ける。彼らは3代目のクリチャンである。教会の宝であるこの子供たちの信仰が守られるように、また後に続いて共に教会を建て上げていく「神の聖所の柱」となる老いも若きも多くの人が集められるように祈ろう。